死後への恐怖という想像上の恐怖に打ちひしがれるようになったのは,人間が生まれたときに始まったのだろう。死者の埋葬は,それを示している。だが,それは野生動物にとっては,もっともありえない観念である。
この将来への不安こそが,資源の浪費につながっていると,私は思う。南アフリカ海岸の遺跡に堆積されたカサガイのサイズを測ると,中期石器時代には成長した貝殻がほとんどなのに,3万年前の後期旧石器時代には未成熟のサイズが小さい貝殻ばかりになっていた。つまり,彼らは成長してしまう前の貝を採集していた。あきらかに過剰利用である(Klein, 1999)。
この貝殻サイズの変化は,現代人が本質的に過剰消費型でああることを示す。
なぜか?我らは不測に備えるからである。想像される将来に備えるからである。我らはそこにあるものだけでは,けっして満足しない。
食物がなくなる季節には,どうするか?子供たちが増えたら,どうするか?動けなくなったら,どうするか?
将来への不安,想像上の不安が,いつも心に突き刺さっている。それが必要以上の採集,生態系が供給する以上の食物を探しまわり,蓄積する衝動につながっている。生態系の全体を見通した適正な消費に抑えることができず,わずかな利益に狂奔するのも,人間にとって抑えられない衝動である。
食物だけではない。
死後への恐怖というありえない幻影におびえ,想像上の敵を作り出して憎悪を強めるのは,人間精神の不合理である。
島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.257-258
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