友だちのいない世界では,愛情空間は夫婦や親子,恋人単位に最小化し,人間関係はますます濃密で複雑になっていく。ぼくたちはもともと,他人と共感し,他人から大切に扱われることに喜びを感じるようにつくられている。かつてはこうした人間関係はムラ的な共同体に分散されていたけれど,いまではごくかぎられた1人か2人にすべての感情が集中している。
最近の小説や映画には,自分を中心とする小さな世界を微に入り細をうがって描くものがやたら多い。こうした得意な心象風景がなんの違和感もなく共有されるのは,ぼくたちがみな社会の片隅で,自分だけの小さな世界を守りながらばらばらに暮らしているからだ。
世の良識あるひとたちは,ひととひととのつながりが薄れてきたことを嘆き,共同体の復権を望んでいる(最近ではこれを「新しい公共」という)。でもぼくは,こうした立場には必ずしも与しない。彼らの大好きな安心社会(ムラ社会)は,多くの人たちに「安心」を提供する代わりに,時にはとても残酷な場所になるからだ。
政治空間の権力ゲームでは,仲間(友だち)から排除されることは死を意味する。いじめが常に死を強要し(「死ね」はいじめのもうひとつの常套句だ),いじめられっ子がしばしば実際に死を選ぶのは,人類史(というか生物史)的な圧力の凄まじさを示している。友情は,けっしてきれいごとではない。
それに対して貨幣空間は「友情のない世界」だから,市場の倫理さえ遵守していれば,外見や性格や人種や出自は誰も気にしない。学校でいじめられ,絶望した子どもたちも,社会に出れば貨幣空間のなかに生きる場所を与えられる(そしてしばしば成功する)。これはとても大切なことだ。ぼくにはいじめられた経験はないけれど,学校生活に適応できたとはとてもいえないから,こころからそう思う。
その一方で,「友情のない世界」がバラ色の未来ではないことも確かだ。そこでは自由と自己責任の原則のもとに,誰もが孤独に生きていかなければならない。愛情も友情も喪失し,お金まで失ってしまえば,ホームレスとなって公演の配食サービスに並ぶしかない。
橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.146-147
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