米国型の人事制度は地位や職階で業務の分担が決まるから,競争のルールがはっきりしている。頂点を目指すのも,競争から降りるのも本人の自由だ。それに対して上司や部下や同僚たちの評判を獲得しなければ出世できない日本の人事制度は,はるかに過酷な競争を社員に強いる。この仕組みがあるからこそ,日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれるほど必死で働いたのだ。
日本的雇用は,厳しい解雇規制によって制度的に支えられている。だがその代償として,日本のサラリーマンは,どれほど理不尽に思えても,転勤や転属・出向の人事を断ることができない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だが,その反面,人事における会社の裁量を大幅に認めている(転勤が不当だと訴えてもほぼ確実に負ける)。解雇を制限している以上,限られた正社員で業務をやりくりするのは当然だとされているのだ。
ムラ社会的な日本企業では,常にまわりの目を気にしながら曖昧な基準で競争し,大きな成果をあげても金銭的な報酬で報われることはない。会社を辞めると再就職の道は閉ざされているから,過酷なノルマと重圧にひたすら耐えるしかない。「社畜」化は,日本的経営にもともと組み込まれたメカニズムなのだ。
このようにして,いまや既得権に守られているはずの中高年のサラリーマンが,過労死や自殺で次々と生命を失っていく。この悲惨な現実を前にして,こころあるひとたちは声をからして市場原理主義を非難し,古きよき雇用制度を守ろうとする。しかし皮肉なことに,それによってますます自殺者は増えていく。
彼らの絶望は,時代に適応できなくなった日本的経営そのものからもたらされているのだ。
橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.226-227
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