同じことがスポーツでも言える。1900年のパリオリンピックで男子100メートル層の優勝者が11秒という記録をたたき出したとき,それは奇跡と言われた。今日では,そんなタイムでは高校陸上の全国決勝にすら残れない。1924年のパリオリンピックでは,飛び込みの2回転宙返りは危険すぎるとして,ほとんど禁止されそうになった。それがいまやだれでもやる技になった。1896年のアテネオリンピックのマラソン記録は,いまやボストンマラソンの参加登録の足切りタイムより数分速いものでしかなく,何千人ものアマチュアが楽々とクリアできる。
学問においても,水準は上がるいっぽうだ。13世紀イギリスの学者ロジャー・ベーコンは,数学をマスターするには30年から40年かけないと無理だ,と論じた。ところがいまや,ほとんどあらゆる大学生が解析学まで学ぶようになった。ほかにもいろいろ例はある。
ここでわたしが言いたいのは,こうした水準の向上は人びとの才能が高まったから起きているのではないということだ。ダーウィン的な進化はそんな短時間で生じるものではない。したがってそれは,人びとがもっと長時間,身を入れて(プロ根性に突き動かされて)うまく練習しているから生じた結果にちがいない。進歩を引き起こしているのは,練習の質と量であり,遺伝子ではない。そして社会がそうなら,個人にも同じことが当てはまると認めてもいいのでは?
マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.20
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