これらは倫理的にむずかしい問題だが,まずはスポーツマンにもそうでない人びとにも同じように有用な強化について考えてみよう。たとえば知能を高める薬だ。現在のところ,それは仮定にすぎない(いまのところそのようなものは存在しない)が,倫理的問題を考える手がかりにはなる。
おそらく留意すべきなのは,われわれはふだん教育制度によって知能を伸ばそうとしている点だ.哲学者ジョン・ハリスはこう指摘している。政治家がカリキュラムを練り直して平均学業成績を5パーセント伸ばしたとしたら,彼は英雄と呼ばれるだろう。では,まったく同じ結果を遺伝子操作でめざしたらどうだろうか?大統領生命倫理評議会の答えはこうだ——「人工的」手段を使って,そのほかの点において望ましい目的を達成するのは,どこか好ましくないという。
べつの例を挙げることで,この反対意見が信頼できるものなのか確かめられる。カリフォルニア工科大学の科学者たちがガンにたいする抵抗力を遺伝的に操作しようとしていることは,すでに紹介した。手段が好ましくないからという理由で,この研究を禁止すべきだろうか?ガンに苦しむ人びとに,この「人工的」治療法の恩恵を受ける機会を与えずにおくべきなのだろうか?
倫理的保守派がこの問いに「イエス」と言うのなら,その立場は狂っているとしか思えない。治療法がある意味「人工的」だからというだけで,ひどい苦痛に苛まれている人たちを放置していいはずがない。重要なのは目的で,手段ではないはずだ。だが遺伝子操作によるガンの治療法についてそれが当てはまるとしたら,たとえば知能の向上や長寿化といった望ましい目的につながるほかの遺伝子工学的手法にも,それが当てはまらないわけがない。
保守派はたいてい,理由を変えてこの議論に応じる。治療と強化には倫理的なちがいがあると主張する。前者——たとえばガンの治療法——は患者を「正常に機能する状態」に戻すが,後者——たとえば知能を高める遺伝子療法——は個人を「正常をこえた状態」にするというわけだ。
しかし,この区別はややあやふやだ。悲しいかな,人間がガンに対して脆弱なのはまったく当たり前で,だからこそ科学者たちは治療法を見つけたがっている。体調不良や病気は,人間の状態の正常な側面だし,それは昔から変わらない。加えて,もっと広い視野で見れば,能力を高める理由は,病気を治す理由とつながっているはずだ。どちらも,より良い,もっと充実した生活を送れるからである。
マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.267-269
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