僕が知っている良い大人というのは,にこにことして僕の言うことを聞いて頷いてくれる,褒めてくれる,でも,結局は僕の言葉の意味するところを理解しているのではなくて,笑顔で聞き流しているだけなのだ。誰も,僕の疑問には答えてくれなかった。それはもう子どもの時からずっとずっとそうだったのだ。唯一の例外は,図書館の本だけ。僕にとっては,本だけが本当の「大人」だった。それらは,生きているかどうかもわからない人たちが書いたものだったから,雲の上の神様と同じ感覚だ。
だから,神様たちはここにいたのか,というふに,僕は大学という場をイメージしたのだと思う。世の中は捨てたものではない,とやっと信じることができた。20代の前半でこのことを知ったのは,本当に「救い」だった。知らないまま社会に出ていたら,僕はずっと人間の価値がわからないまま生きていくことになっただろう。心のどこかでは必ず人を疑っている人間になってしまっただろう。大袈裟ではなく,この歳になってやっと信じられるものを見つけた気がしたのだ。
森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.70
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