考えるという行為は,運動に似ている。ランニングすることと,思考することは,躰の使っている部位が違うだけで,あとは同じだ。ランニングの場合,目的地があるわけではない。目的地があると,それは労働に近いものになる。同じように,考えて求められる答が定まっているものは,明らかに労働だ。数学の問題を解くのも,競技として捉えればスポーツといえるけれど,やはり答が決まっているから,ある種の労働といえる。頭脳労働という言葉があるではないか。頭脳労働というのは,計算機に任せることが可能な仕事のことだと僕は思う。しかし,研究における思考は,こういった労働ではないから,いくら計算機が発達しても,真似ができないだろう。筋道がなく,方法も定かではなく,それどころか答が存在するのかどうか,解くことができるのかも保証がない,それが研究における思考である。
森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.194-195
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