イメージは人によって違うし,同一の人でも,時と場所でイメージが異なる。たとえば,猫のイメージと一口に言ってもいろいろあるだろう。猫の側面のイメージ,猫の前面のイメージ,大きい猫のイメージ,胴の長い猫のイメージなどなど。しかし,さまざまなイメージがあるといっても,これらのイメージがぜんぜん違うわけではない。それらのイメージは似ているのだ。足が4本であるとか,大体の大きさとか,言葉では表現しにくいが「猫」らしさという点では共通している。
それではイメージによる意味が確定できない,それは問題ではないかと問われるかもしれない。しかし,われわれは,つねに意味を確定して生きているであろうか。じっさいには,自分の生活に支障のない範囲で意味が明確であれば十分なはずである。たとえば私の場合,猫の意味はそれほど確定していない。猫にとくに意味があるわけでもないし,猫を飼っているわけでもない。街を歩いているときに,ひっかかれないようにしている程度である。しかしそれで現在までの生活に格段困ったということはない。猫と犬を一応識別することはできるが,その程度に猫に関する意味がわかっていれば十分なのである(猫を百匹飼わねばならないとなれば,私も猫に関する意味をもう少し明確にすることになるであろう)。
「神」などの抽象的な言葉はどうなるであろうか。猫や犬に比べて,神をイメージするのはとても大変である。私がいまイメージしたものは,天上に人間(に類似したもの)が雲の上でふわふわ浮かんでいるイメージである。このようなイメージを私が描くのは,漫画や映画やテレビなどで,そのようにして描かれた神を何度となく見てきたからであろう。このようなイメージで十分だろうか。それでよいという人もいるだろう。よくないという人もいるだろう。神のイメージは宗教によっても違う。皆が同意するような神のイメージというものはないであろう。だから,神のイメージはあいまいなままである。無神論もあり,そもそもあるかないかでも合意できないものなのであるから。したがって,もともとあいまいなものだから,イメージもあいまいで仕方がない。
月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.58-59
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