アメリカの医学研究の創始者のひとり,サイモン・フレクスナーの支持を受け,世界的な名声を得た野口英世の場合をとりあげてみよう。赤痢菌を初めて分離したフレクスナーは,ニューヨークのロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)の創設に貢献した。彼の指導の下に,この研究所はウイルス病に関する研究で世界の中心となった。
フレクスナーは1899年に日本を訪れた時,医学研究での成功に燃えるような情熱を抱いていたこの野心的な和解日本人研究者に会った。その後,野口はアメリカにフレクスナーをたずね,彼の下で科学のスーパースターになったのである。フレクスナーの足跡をたどりながら,数多くの病気の原因となる微生物を分離し続けた彼は,梅毒,黄熱病,小児まひ,狂犬病,トラコーマの病原体を培養したと報告し,約200篇(当時としては驚くべき数だった)の論文を発表した。
野口は1928年に亡くなったが,数々の業績により,医学研究者として国際的な名声を得た。研究所の同僚で,優秀な病理学者のシアボールド・スミスは「最も偉大とは言えないまでも,野口はパスツールやコッホ以来の微生物学における偉大な人物のひとりとして脚光を浴びるであろう」とはっきり述べていた。
パスツールやコッホの研究は時の試練に耐えたが,野口の研究はそうではなかった。種々の病原体を培養したという野口の主張は,当初こそ丁重に議論されたが,その後はひっそりと,長く暗い忘れ去られた研究の回廊へと追いやられてしまった。彼は,畏敬していた厳格な師,フレクスナーのために,顕著な業績を規則的に生み出す必要に迫られていたのだろう。彼の仕事の多くが誤りであったことの理由が何であろうと,生存中には,彼の研究に対してほとんど異議が唱えられることはなかった。フレクスナーの弟子として,また,最も権威ある研究所の花形として,彼はまさにエリートであった。それによって,欠陥を見つけだす審査から免れたのだ。
彼の死から50年後,彼の業績の総括的な評価が行われたが,ほとんどの研究がその価値を失っていた。この特異な事例を調査したある科学評論家は,「研究者がいかに優秀であっても,科学上の報告に対しては充分な検討がなされなければならないと言えるかもしれない」と語っている。
ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.150-151
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