文学の形式に置き換えるなら,科学の論文はソネット(十四行詩)のように様式化されているといえる。もし,この厳格な記述形式に従わなければ,単純に,それは公刊されないだけのことだ。要するに,実験はその全過程が,哲学者の処方箋に従って行われたかのごとく報告されねばならない。科学論文を書く際には,客観性を保つために筆者はいっさいの感情的な要素を排除するよう要求されているのである。
その結果,科学者は発見に伴う興奮,誤った出発点,希望や失望,あるいは実験の各段階で自らがたどった思考の道筋すら記述できない。極めて形式化された手段によってのみ(通常はその分野における研究の現状を記述することによって),科学者は研究に取り組んだ理由を暗に述べることができるのだ。さてその次は“材料と方法”の部分だが,ここでは世界中の誰もがその実験を繰り返せるように,実験に用いられた材料と方法が電文のように簡潔に記述される。実験“結果”の部分は定められた方法によって生み出された無味乾燥なまとめである。最後の“結論”では,データがいかに新しい理論の検証や反証を行っているか,あるいは発展させているか,そして,それが将来の研究にとってどんな意味をもつのかが示されている。
科学論文は反歴史的なものである。なぜなら,原則的な科学論文の書き方は,歴史家の基本原則(誰が,何を,いつ,どうして)を初めから切り捨ててしまうことを求めているからである。科学の鉄則は,そういった個々の項目に対するいかなる記述をも削除することを要求する。客観性の名のもとに,あらゆる目的と動機は抑圧され,論理の名のもとに,理解に至る道筋は省かれなければならないのだ。つまり,科学論文の構成は神話を不滅にすべく企てられた虚構なのである。
ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.198-199
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