僕は,この業界のことをよく知らなかった。知らないからこそ,一般大衆がどう意識しているかが素直に見えていた。たとえば,その頃には「分厚い小説が売れる」という神話が出版界にあった。分厚いものをみんなが読みたがっている,と編集者は口にしていた。小説が大好きな人ばかりの小さなサークルではその通りだったかもしれない。だが,考えてもみてほしい。世の中には沢山面白いことがあって,普通の人たちはそんなに暇を持て余しているわけではない。小説も読みたいけれど,ドラマも見たいし,美味しいものも食べにいきたい。ショッピングがしたいし,友達と話もしたい。豊かな社会になっても,時間は1日24時間で変わらない。勤務時間は高度成長期に比べれば少なくなったかもしれないが,娯楽の選択肢は爆発的に増えている。僕の経験や,学生たちの話によれば,中学や高校のときには,ある程度本を読んだ。勉強もしなければならないが,本は読めた。それが,大学に入ると新しいことに時間を取られる。また,本が好きな人間でも,就職をするともう通勤電車の中でしか本を読んでいる時間はない。
森博嗣 (2010). 小説家という職業 集英社 pp.50
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