それどころか,ESPという概念は,霊の存在を危うくしかねない。ESPに限界がないとすると,霊の存在が証明できなくなってしまうのだ。いわゆる「超ESP仮説」である。
霊媒に憑依した霊が,故人しか知りえないような情報を語ったとしよう。ESPが存在しないなら,これは霊が実在する証拠とみなされるだろう。しかし,ESPが存在するなら,トランス状態に陥った霊媒が無意識にESPで知った事実を口にしているのではないか,という仮説を却下できなくなる。
霊を写真に撮ったらどうなるだろう?いや,それも証明にはならない。いわゆる念写という現象が存在するなら,それが撮影者の念写ではないことをどうやって証明するのか?
霊が何かを動かしたり,物理的な痕跡を残したら?いや,それでもだめだ。その現象が誰かの潜在的なPK能力のしわざではないと,どうして言えるのだろう。実際,超心理学者たちは,ポルターガイスト現象にRSPK(回帰性自然発生サイコキネシス)というもっともらしい名前をつけている。霊が家具を揺らしたりするなど,迷信にすぎない。そうした現象は,その家に住んでいる人間,特に思春期の少年少女が,無意識にPKで起こしている現象に違いない……。
そう,もともと唯物論から生まれた「超能力」という概念は,「霊の存在」という概念と矛盾する。にもかかわらず,マイヤーズやライン,それに続く研究者たちは,自らの首を絞めかねない超能力の研究に没頭してきたのである。
山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.269.
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