人間は事実というものをたいして重視してはいないが,自分のこととなると話は別である。自分の身長が1センチ違っても大騒ぎするのだ。どうして自分のことに大騒ぎするのかということは自明ではない。
「本人がこだわらなければ,だれがこだわってくれるというのか」
という人がいつかもしれないが,
「どうしてお前のことにこだわる人がいなくてはならないのか」
という,いっそう深刻な問題を提起されるだけである。
しかし,「自分に関する事実にこだわっている」といっても,実際には,自分に関係の深い事実ほど,想像によって歪曲されているものである。多くの人は,何の根拠もなく「努力しさえすれば他人には絶対に負けない」と夢想しているし,ギャンブルをやる人は「ギャンブルを続けていれば,いつか必ず大勝する」という自分勝手な信念を持っている。他にも,
・あの女がこっちをちらっと見たのは,わたしに気があるからだ
・あの女がこっちを見もしないのは,恥ずかしがっているからだ
・この犬がほえるのは,わたしを手ごわい相手と思っているからだ
・この犬がほえないのは,わたしに敬意を払っているからだ
・わたしはたぶん死なない。たとえ死んでも,それは本当の死ではない
といった甘い夢の世界にわれわれはひたっているのだ。たしかにこの夢が破られるときもある。異性にふられた,体重計の上に乗った,鏡を見たときなどがそうである。しかし,その場合ですら,「女は男を見る目がない」とか,「この体重計はこわれている」と,あくまでも夢を救おうとする傾向がある。われわれがかろうじて自分に誇りをもって生きていられるのは,想像によって,このように虫のいい勘違いをするからだ。
土屋賢二 (1999). われ大いに笑う,ゆえにわれ笑う 文藝春秋 pp.64-65.
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