この論理的,哲学的な問題は深刻だ。言語は一般論なのに,図は特定のものになってしまう。特定の性質を持たない図を描くことなどできない。先ほどの証明で,直角でも鋭角でも鈍角でもない,単に「一般的な」角度の三角形を描きたかったとしたらどうだろう。そんなことは不可能だ。どうしても具体的な三角形を描くしかなく,具体的な三角形であるがゆえに,どうしても具体的な角度になってしまう。一方,言語はもっと寛大だ。「三角形があるとする」と言えば,どの三角形かを特定しているわけではなく,ただ漠然と「三角形」と言っているだけなので,直角三角形でも鋭角三角形でも鈍角三角形でも,好きなように思い浮かべられる。だからこそ,近代の哲学者や論理学者は,証明を最大限に一般化して完全に論理的に進めるには,けっして図をよりどころにせず,言語だけを頼りにしなければならないと力説するわけだ。
リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.134-135
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