慶應義塾と東京専門学校がとりわけ授業料の徴収に熱心だったのは,この2校だけが専任の教員を抱えていたかあでもある。それ以外の法学系私学は,いずれも他に本来の職業を持つ人たちが,まさに「公務ノ余暇」に教育にあたっていたのであり,「教員講師ハ総テ無謝儀」(『法政大学八十年史』139ページ)という場合も少なくなかった。私学にとって最大の経費は人件費である。この時代はいま以上にそうであった。大方の私学は専任教員をまったく持たず,非常勤の時間講師を頼りに校舎も借り物で,もっぱら夜間パートタイムの教育を行っていたというのが実態であった。
これを,最先端の欧米の学問を身につけた,限られた人材の有効活用の方策と見ることもできないではないが,ひとつの学校,とりわけ私立学校が永続的な組織として発展し,やがて「大学」へと「離陸」を遂げるためには教育,さらには研究活動の安定的な担い手となる教員集団を,どうしても持たなければならない。慶應義塾と東京専門学校が,数ある私学の先頭を切って,帝国大学に対抗する大学へと成長を遂げることができたのは,それが最初から,小なりといえども専任の教員集団を持ち,またあとで見るように,自前でその拡大再生産をはかる努力を早くから重ねたからである。
天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.86-87
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