しかし,その「帝国の大学」でなぜ奨学金だったのか。
この時代,ドイツをはじめヨーロッパの大学では授業料は基本的に無償であった。ところがわが国の大学も専門学校も,官立でありながら私費を原則としていた。日本型グランド・ゼコール群は官費生制度をとっていたが,それは卒業後の長期にわたる奉職義務と引き換えであったことはすでに見たとおりであり,しかもその官費生制度は短期間に次々に廃止されていった。東京大学には給費・貸費の制度があったが,その恩恵にあずかる学生の数は限られていただけでなく,明治18年には森文相によって,授業料がそれまでの月額1円から2円50銭に一挙に引き上げられ,貧乏士族の子弟が多数を占める学生たちに衝撃を与えた。
当時の文部省の高級官僚で,明治26年には帝国大学総長にもなる浜尾新によれば,貧乏学生を教育しても,卒業後「徒ニ月俸ニ恋々シテ,僅ニ一身一家ヲ維持スルヲ謀ル」にとどまり,「到底完全ノ専門家タルノ実力ヲ顕ハス」ことはできない,これからは「中等以上ノ資格ヲ備フル人民ニシテ,十分ノ学資ヲ有スル者ノミヲ養成」するほうがよいからだというのが,その授業料引き上げの理由であった(天野, 2005年, 53ページ)。
帝国大学の最低年俸が400円という時代の明治22年に,森文相がその授業料をさらに月額10円にまで引き上げると宣言して,学生たちに大きな衝撃を与えた。官立学校は「皆国家ノ必要ニ由テ設立スルモノ」だから,おおむね「其経費ハ国庫ヨリ支弁」するが,「修学スル生徒ハ亦,其自己ノ教ヲ受クル報酬トシテ,其授業料ヲ払フハ固ヨリ当然ノコト」ではないか,というのである。なにやら昨今の国立大学の授業料をめぐる議論を聞くような話だが,このドラスティックな値上げ案は,森の暗殺という思いがけない事件で沙汰やみとなり,授業料は据え置かれることになった(同書, 55ページ)。
天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.106-107
PR