人材養成が遅れていたのは,文科大学も同様である。それは東京大学時代の文学部が,性格の曖昧な学部だったことと関係している。
文学部の編成は,史学,哲学及政治学科と和漢文学科の2科で発足したが,前者は「史学科は,教授にその人を得る能は」ないという理由で,明治12年哲学政治学及理財学科と名称変更された。明治14年に哲学科が独立して3科編成となり,さらに18年には和文学科と漢文学科が分かれ,また政治学科と理財学科が法学部に移された。この間の卒業生35名の専攻を見ると,哲学1名,和漢文学3名を除いて,他はすべて政治学ないし理財学専攻であった。
これに対して文学部時代に任命された教授8名のうち,外山正一を除く7名はすべて,和漢文学の担当者で占められており,政治学・理財学関係は,全面的に外国人教師に依存していたことがわかる。その外山が,留学帰りとはいうもののミシガン大学で何年か勉強しただけで,哲学,心理学,史学,社会学と何でも教えている。外国人教師もまた,政治学・理財学のほか哲学・倫理学まで担当した。ハーヴァード大学出身のアーネスト・フェノロサの例に見るように,特定の専門分野の研究者というのはほど遠く,リベラルアーツ・カレッジの教師に近かった。
天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.219-220
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