この人は——シィーと呼ぶことにするが——ある新聞社の記者で,この新聞社のデスクの発案で,実験室を訪ねてきたのである。
どこもそうであるように,毎朝,デスクは自分の部下たちに指令を与えていた。彼は,部下たちに,訪ねていくべき場所のリストを列挙し,それぞれの場所で,何を知ってくるべきかを言うのである。シィーはこのような指令を受ける部下の一人であった。
住所やその指令のリストは十分長いものであったが,デスクが驚いたことに,シィーは,受けた指令を,一言も,紙に書きつけることはなかったのである。デスクは,不注意な部下に小言を言うつもりでいた。シィーは,デスクの求めに応じて,課せられたことすべてを正確に反復したのである。デスクは,何が起きているのか事の事情をわかろうとして,彼の記憶について訊ね始めた。しかし,シィーは,まったく納得できずに,こう反論した。言われたことをすべて覚えることは,本当に,特別のことなのか?本当に,他の人々は,自分のようにやっていないのか?自分が,他の人々とは異なった何らかの特殊な記憶力をもっているという事実に,シィーはまだ気がついていなかったのである。
そして,デスクは,シィーの記憶力を調べてもらうため,シィーを心理学実験室にさしむけたのであった。このようにして,シィーは,私の前に坐ることになった。
A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.7-8
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