明らかになったことは,シィーの記憶力は,たんに記憶できる量だけでなく,記憶の痕跡を把持する力も,はっきりとした限界というものをもっていないということであった。いろいろな実験で,数時間前,数ヵ月前,1年前,あるいは何年も前に提示したどんなに長い系列の語でも,彼はうまく——しかも特に目立った困難さもなく,再生できることが示されたのである。そのうちのある実験は,同じくうまくできたものだが,何ら予告なしにある系列を記銘させ,15,6年たってから行ったものであった。このような場合,シィーは,坐り,目を閉じ,しばらく休止し,そしてつぎのように話しはじめた。「そうです。そうです。それは貴方のアパートでのことでした。貴方は机の前に坐り,私は揺り椅子に坐っていました。貴方は灰色の洋服を着ていて,そしてそのように私を見つめて……はい……貴方が私に話したことがわかります……」——そしてつぎに,以前に読み聴かせた系列を誤りなく再生したのであった。
その頃までにシィーは有名な記憶術者となり,何千,何百の系列を記憶しなければならなかったという事情にもし注意を向けるとすると,この事実は,さらに一層驚くべきものとなる。
A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.12-13
PR