シィー自身は,人の顔の記憶がよくないことについて,何回となく愚痴をこぼしていた。
「人の顔は,実際に不安定です。人の気持の状態や,どういう場合に会うかに依存して,しょっちゅう変わり,このニュアンスはめちゃくちゃになります。したがって,大変覚えにくいのです」。
この場合,先に述べた諸実験で把持した材料の想起に必要な正確性を保証していた共感覚的な経験が,今度は対立する作用に変わり,記憶の把持を妨害しはじめているのである。人の顔を覚える際にわれわれが行なっている再認に必要な,重要な拠点をとり出す作用(この過程は心理学で十分研究されていないが)が,シィーの場合,明らかに脱落しているのである。そして彼の場合,人の顔の知覚は,われわれが窓のそばに坐り,波立っている川波を見ている時に,観察することができる,常に光陰が変化しているものの知覚に近いものになっている。揺れ動いている川波を誰が「覚える」ことができようか?
A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.74-75
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