文の理解,情報の受容は,われわれの場合には,常に本質的なものを抽出し,非本質的なものを捨象していく仮定で,短縮しながら経過するのであるが,この場合には,浮かび上がってくる像との苦しい闘いの過程になりはじめている。つまり,像は認識を助けるものとはなり得ず,反対に——脇道へそらしたり,本質的なものの抽象を妨げたり,他の像と一緒になったり,新しい像になったりして——認識の妨げとなり,そのつぎには,像が,テキストが進む方向と別の方向に進んでいることがわかり——なにもかも再びやりなおさなければならない。簡単に思える文の一節や,単純な文の場合ですら,その読解は,非常に徒労の多い作業になるのである……。しかも,これらの鮮明な心像が,意味の理解を助けているという確信はけっして残らない——もしかすると,それは意味理解をそらしているかもしれない。
A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.138-139
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