識者の一部には,日本語の表現が曖昧であることをもって,論理的でなく科学の記述に向いていないと称える人がいる。これは問題の把握が適切でない。「日本語の表現が曖昧である」のではなく,「日本語では曖昧な表現が可能である」と考えるべきである。このことは,日本語による厳密な論理的表現が可能であり,科学論文が書けることから明らかである。このことの証左の第1は,厳密であるとするラテン語の系譜にある英語,フランス語,ドイツ語などインドヨーロッパ系言語を日本語に翻訳できることにある。曖昧な表現しかできないならば翻訳はできないはずである。逆についても同様である。日本語をインドヨーロッパ系言語に翻訳しようとするとき,表現が曖昧なために困難を感じる,という。これは日本語の表現を曖昧にして使っているからである。ここに,現在の日本語の使い方,遡れば日本語の教育の問題があると私は考える。
市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.100-101
PR