現在では,北アフリカが古代世界の穀倉地帯だったとは考えがたい。しかし北アフリカの穀物は紀元前330年にギリシアの飢饉を救い,ローマがカルタゴを征服したのには農地獲得の意味もあった。ローマ元老院はキレナイカ(カルタゴとエジプトに挟まれた北アフリカ沿岸部)を紀元前75年に併合した。その年,スペインでの戦争とガリアでの不作のために,北部属州では自分たちの食料供給が精いっぱいで,まして首都を養うことなどできなかった。ローマでは飢えた民衆が暴動を起こしたため,穀物の生産力を求めて元老院はキレナイカを併合したのだろう。
この地域で古代に甚だしい土壌侵食が起きていたことを示す証拠は,ローマ時代以降,北アフリカの灌漑農業が放棄されたことの原因を気候変動に求める見解に疑問を投げかける。ローマが支配していた北アフリカの大部分は限界耕作地であったが,1980年代半ばのユネスコの調査で報告された考古学的証拠は,初期のローマ人の入植が自給自足の個人農家によるものであったという記録を裏付けている。その後数世紀かけて,農地が併合され,輸出向けの穀物とオリーブの栽培を目的とする大規模農場となるにつれて,灌漑農業が徐々に広まっていった。
デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.86
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