端的に言えば,ヨーロッパの先史時代は,農耕民が徐々に移住し,その後土壌侵食が加速し,ローマ時代あるいは近代まで人口密度が低い時代が続くというものだった。ギリシアやローマと同様,中欧と西欧でも,初期の森林伐採と耕作,それらが引き起こした大規模な侵食,引き続いて発生した人口減とその後の復活という物語があったのだ。
ローマ帝国が崩壊すると,文明の中心は北へ移った。ディオクレティアヌスは首都ローマを捨て,紀元300年にミラノへ政府を移した。テオドリクスは,ローマ帝国の廃墟の上に東ゴート王国を建国した際,北方のベローナを新たな首都に選んだ。それでも,北イタリアの農地の多くは,11世紀の開墾計画により再び耕作が始まるまで,数世紀の間,休耕状態に置かれていた。何世紀にもわたり努力が続けられた結果,北イタリアの農地は再び耕作され,ルネッサンスの文学と美術をはぐくんだ裕福な中世都市を支えた。
北イタリアの人口が再び増加すると,集約的な土地利用のためにこの地域の河川の土砂流出量は増加して,レオナルド・ダ・ビンチの目に留まるまでになり,ローマ時代の河川工学と洪水調節の技術が復活した。山腹の集約的耕作はアルプス地方に拡がり,ローマの土地利用がテベレ川にもたらしたのと同様の結果をポー川にもたらした。8世紀にわたり耕作が繰り返された末,北イタリアの土壌までもが劣化した。ムッソリーニのファシスト政権は1930年代に約5億ドルを土壌保全に出費した。
デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.117-118
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