ヨーロッパに壊滅的な打撃を与えた1315〜17年の飢饉は,人口が農業システムの支えられる限界に近づいたときに,天候不良が影響すればどうなるかをまざまざと示している。1315年はどの季節も雨が多かった。畑が冠水し,春まきの種はだめになった。収穫高は平年の半分で,なけなしの干し草は収穫時に濡れており納屋の中で腐った。1316年初頭には食糧不足が拡がり,人々は翌年の種としてとってあった収穫物を口にせざるを得なくなった。夏中雨が続いて,また不作になり,コムギの価格は3倍に上がった。貧しい者たちは食糧が買えず,金持ちは——王さえも——買おうとしても常に手に入るとは限らなかった。飢えた農民の集団は盗賊に転じた。飢饉のひどい地方では人肉食に及ぶこともあったという。
栄養失調と飢餓が西ヨーロッパを悩ませ始めた。イングランドとウェールズの人口は,ノルマン人の侵入以降ゆっくりと,しかし着実に増加し,それが1348年の黒死病の流行まで続いた。大飢饉が死者をさらに増やした。イングランドとウェールズの人口は,1300年代初めの約400万人から,1400年代初頭には約200万にまで落ち込んだ。ヨーロッパ大陸の人口は4分の1減少した。
黒死病で田園地帯の人口が激減した後,地主たちは競って小作人を引き留めようとして,そこそこの小作料で終身あるいは相続可能な耕作地の借地権を与えた。人口が回復すると,それが農業拡大の最後の一押しとなり,16世紀初頭には景観は見渡すかぎり農地になった。1500年代末より,高騰した相場で土地を貸せばより多くの小作料が見込めることから,地主たちはそれまで共同で放牧されていた土地を囲い込み始めた。すでに土地が残っておらず,有力な隣国に取り囲まれていたオランダは,海を干拓して土地を得るという野心的な行動に乗り出した。
デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.122-123
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