これといった基準がないところに順位を付けなければならない場合,何が起きるかというと,堕落したゲームが始まるのだ。「人気取り競争」とでも呼べばいいだろうか,米国のほとんどの学校で起きているのはまさにそれだ。生徒の順位は,本物のテストではなく,自分がどれだけ順位を上げられるかという能力によって決まる。ルイ14世の宮廷のようなものだ。外敵がいないから,子供たちはお互いを敵とするんだ。
外部に能力を試すはっきりしたテストがあれば,一番下の階級にいても苦しくはない。フットボールチームのルーキーはベテランプレーヤーの能力に腹を立てたりはしない。むしろいつかそうなりたいと思うだろうし,先輩に学ぶ機会があれば喜んで学ぶはずだ。先輩も上に立つ者の責務,つまりノブレス・オブリージュを感じるだろう。そしてもっと重要なことは,メンバーの地位はどれだけ対戦相手に対して戦えるかによって決まり,お互いの足をどれだけ引っ張れるかによって決まることはないということだ。
宮廷の階級は全く違ったものだ。この種の社会は中に入る者すべてを悪くする。下の者が上を称賛することもないし,上に立つ者が責任を感じることもない。殺るか殺られるかだ。
米国の中学校で作られる社会もまさにそれだ。そうなるのは,子供を毎日特定の時間,一箇所に閉じ込めておく以上の本当の目的を学校が持たないからだ。私が当時気付かなかったことは,いや,ごく最近まで気付かなかったことは,学校生活の2つの恐怖,つまり,残酷さと退屈さの根はひとつだったということだ。
Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.18-19
PR