ここでもやはり,異時点間の交渉がこのギャップを埋められるのではないか。実は,決定論と自由意志との論争は,報酬vs.認知論争の一例らしい。これは異時点間の交渉という理由づけがないために決着がつかなかったのだ。自由意志の論争で欠けている一片は,再帰的な自己予想プロセスであり,そのために自分自身の心も確実には予測できなくなっているのだ。
この予測不可能性は,しばしば自由意志の核心にあるとされていた。たとえばウィリアム・ジェイムズの有名な例では,自分の決断が自由であると特徴づけるのは,自分の行動がどうなるか——たとえば帰宅するときにオックスフォード通りを通るかディヴィニティ通りを通るか——が事前にはわからないことだった。でも,自由意志の支持者のほとんどは,自由な選択は外部の決定要因からは原理的に予測し得ないものでなくてはならない,と主張するだろう。予測できるけれどまだ知られていないだけの選択は,自由ではないと述べるだろう。この主張はまちがいなく,選択が外部から知り得るなら,他人がそれを知ることもできる——邪悪な天才や全能の神,あるいは完成された科学や心理学ならそれを知り得てしまう,という気味の悪い含意からきている。決定論を排除するもう一つの理由は,その選択が原理的にであれ事前に知り得るなら,そこには自分何も関わっていないことになるからだ。再帰的な自己予測理論は,こうした反論に答えねばならない。
ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.194-195
PR