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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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文化の錯覚

 文化ステレオタイプを良く調べてみると,「文化」について,いくつかの錯覚を生み出していることがわかる。もっとも重大な錯覚は,決定性,斉一性,両極性,不変性の4つだろう。いずれも,たいがいは自分がそう考えていることすら意識しないままに陥ってしまっている錯覚である。
 もう少し詳しく説明しよう。
 まず,「決定性」というのは,「文化が人間の行動を決定する」という考えかたである。(ちなみに,ここでいう「行動」は,なにかをしたり言ったりすることだけではなく,価値判断や意思決定など,表にあらわれない精神活動までをも含んだ,広い意味での「行動」である。)「日本文化は集団主義的なので,日本人は集団主義的に行動するのだ」というイメージを思い描いてしまう。これが「決定性」の錯覚である。
 「斉一性」というのは,「ある文化に属するひとびとは,みな同じように行動する」という考え方である。「日本人は集団主義的,アメリカ人は個人主義的」だといわれると,「日本人はみな集団主義的に行動し,アメリカ人はみな個人主義的に行動する」かのような気がしてくる。これが「斉一性」の錯覚である。
 「両極性」というのは,「文化差」を「白と黒」のような極端な違いとしてとらえてしまうことである。日本人論の議論からは,「日本人は非常に集団主義的に行動し,アメリカ人は非常に個人主義的に行動する」かのような印象を受ける。これが「両極性」の錯覚である。
 さいごの「不変性」は,「文化の本質は不変であり,したがって,文化差も本質的には不変だ」という考えかたである。「国民性」とか「民族性」とかいわれるような内面化された文化については,暗黙のうちに,この「不変性」が想定されることが多い。日本人論も例外ではない。
 しかし,これらは,いずれも「錯覚」であり,現実の「文化差」とは大きく食いちがっている。

高野陽太郎 (2008). 「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来 新曜社 pp.281-282.
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