進化はけっして「証明され」ていないという主張について言えば,証明というのは,科学者たちがこれまで,「それに信を置いてはいけない」とさんざん脅かされてきた手法なのだ。影響力のある哲学者たちは,科学において私たちは何一つ証明することはできないと語る。数学者は物事を証明できる——ある厳格な見方によれば,数学者は証明ができる唯一の人間である——が,科学者ができるのは,せいぜい頑張っても,一生懸命に試みたのだと指摘しながら反証に失敗するくらいのことだ。月は太陽より小さいといった異論の余地ない理論でさえ,たとえばピュタゴラスの定理を証明できるようなやり方で,ある種の哲学者を満足させるようには証明することができない。しかし膨大な量の証拠の蓄積があまりにも強力に支持しているので,それが「事実」の地位にあることを否定するのは,衒学者以外のすべての人間にとって,とてつもなく馬鹿馬鹿しく思える。同じことは進化についてもいえる。パリが北半球にあるのが事実であるのと同じ意味で進化は事実である。たとえ詭弁家どもが町を支配しているとしても,いくつかの理論はまっとうな疑問を差し挟む余地がないものであり,私たちはそれを事実と呼ぶ。1つの理論をよりエネルギーを注いで徹底すればするほど,もしその攻撃にたえて生き残ったとき,その理論は,常識がこころよく事実と呼ぶものに,いっそう緊密に近づいていくのである。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.56-57
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