プラトンにとって,私たちが目にしていると思う「実在」は,私たちが囚われている洞窟の壁に,かがり火のゆらめきがつくりだす影にすぎない。他の古代ギリシアの思想家と同じように,プラトンは根本的には幾何学者であった。砂に書かれたあらゆる三角形は,三角形の真の本質の不完全な影にすぎない。本質的な三角形の線は,幅をもたず長さだけの純粋にユークリッド的な線である。線は無限に幅が狭く,平行な二本は交わらないものと定義される。本質的な三角形の角の和は,実際に,ぴったり二直角になり,それよりピコ秒[10の12乗分の1秒]角たりとも多くも少なくもない。砂に書かれた三角形ではそうは言えない。そうでなく,砂に書かれた三角形は,プラトンにとっては,理念的で,本質的な三角形の不安定な影でしかないのである。
マイアによれば,生物学は,生物学独自の本質主義に悩まされている。生物学的本質主義は,バクやウサギ,センザンコウやヒトコブラクダを,あたかも三角形,菱形,放物線,あるいは十二面体であるかのように扱う。私たちの見るウサギは,あらゆる完全な幾何学の形態とともに,概念空間のどこかに漂っている完全なウサギの「イデア」,すなわち理念的で,本質的で,プラトン流のウサギの青白い影なのである。血肉をもつウサギは変異があるかもしれないが,それらの変異体はつねに,ウサギの理想的な本質から逸脱した欠陥品とみなされるのである。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.72
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