私たちが時間をさかのぼって現生のホモ・サピエンスの祖先をたどっていくと,現在生きている人々との違いが十分に大きくなって,別の種名,たとえばホモ・エルガスターという名を当てるに値するような時がやってくるにちがいない。しかし,この道程のあらゆる一歩で,おそらく各個体は,同じ種とみなしてもいいほどに自分の両親および子供と似ているだろう。そこからさらに進んで,ホモ・エルガスターの祖先をさかのぼっていけば,「主流の」エルガスターと十分に異なっていて別の種名,たとえばホモ・ハビリスという名を当てるに値する個体に到達する時がやってくるに違いない。ここでいよいよ,この議論の核心が現れる。さらに時代をさかのぼっていくと,どこかの地点で,現生のホモ・サピエンスと十分に異なっているために,別の属名,たとえばアウストラロピテクスという名を当てるに値する個体に出会い始めるにちがいない。厄介なのは,「現生のホモ・サピエンスと十分に異なる」というのは,ここではホモ・ハビリスと指定されている「最初のホモ属と十分に異なる」とは,まったく別の問題だということである。最初に生まれてくるホモ・ハビリスの代表個体を考えてみてほしい。彼女の両親はアウストラロピテクスである。彼女は両親とは異なる属に所属していたのだろうか?そんな馬鹿な!たしかに,馬鹿げている。しかし,まちがっているのは現実ではなく,どんなものでも名前を付けたカテゴリーに押し込めたいという人間の執着のほうである。現実には,ホモ・ハビリスの最初の代表個体といえるような生き物は存在しない。どんな種,属,目,鋼,あるいは門についても,最初の代表個体など存在しない。これまで地上に生まれたあらゆる生き物は,その両親およびその子供とまさしく同じ種に所属するものとして,分類されたことだろう——そのあたりに分類をおこなう動物学者がいたとすればだが——。そう,現代からの後知恵でもって,そしてリンクの大部分が失われているという事実の恩恵——そう,まさにこの逆説的な意味での恩恵——のおかげで,明確な個別の種,属,科,目,鋼,そして門に分類することが可能になったのである。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.295-296
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