学科で教わることは,以上のように2種類ある。きっちりと分かれるものではないけれど,大別すると,「データ(情報)」と「メソッド(方法)」だ。
前者では,データを正しく自分にインプットし,それが必要なときに的確に取り出せる能力が求められる。これはたとえるならば,自分の頭脳という倉庫に,沢山の材料をストックし,それらをきちんと整理している状態を目指している。材料の名前や性質などの「知識」と,それらを関連づける「整理」が要求される。
これに対して,後者は,それらの材料を用いて加工する「方法」を覚えることになる。算数や数学というのは,一言でいえば「方法」なのである。
実は,国語も,算数と同じように「方法」を学ぶべき分野だと思われる。つまり,イメージを言語にし,思考を文章として組み立てる「方法」が,国語で習得すべき基本的な能力だろう。しかし,今の国語教育は,テストに出しやすく,採点がしやすい問題に囚われているため,子供のうちに論理性を学ぶような機会がない。そもそも,国語を教える先生が文章の達人ではない,という問題が大きいだろう。漢字が書けるとか,読めるとか,そういった手法の前段階の瑣末な知識のインプットに終始している。算数でいうと,数字の書き順とか,読み方を繰り返し習っているレベルだ。
森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.35-36
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