昔の若者は,自分を高めるためのアイテムとして,自分の中に取り入れる情報量を重視した。最も簡単なのは「知識」である。自分が好きなジャンルに関して「物知り」になることで,自分を確立しようとした。「オタク」もこれと同じ形態だった(ただ,ジャンルが大人から見て,いかにも子供っぽいものだった,というだけである)。情報を取り込むことは,すなわち自分を変化させることに等しい。これはスポーツなどで顕著だ。練習することで習得するのは運動神経におけるプログラムであり,つまりは情報である。別の言葉でいえば「技」だ。これを手に入れれば,自分をアピールすることができる。他者を振り向かせたり,他者から認められ,有利な立場に立てる可能性が高まる。そうすることで,より気持ちの良い「自分」になれる,というわけである。
僕が観察する範囲では,最近の若者は少し違っている。自分の好きなジャンルにおいても,それほど情報を集めようとはしない。「技」についても,人にきいたり,ネットで調べたりはするものの,鍛錬や試行錯誤によって習得するまでには至らない。
おそらく,彼らの目の前に存在する情報が多すぎるからだろう。人間の歴史において,これほど情報が手軽に取り入れられる時代はなかったわけで,情報を自分の中にわざわざ取り込まなくても,そういうものは外部に存在すればいつでも利用できる。これは,スタンドアロンのコンピュータから,サーバを外部に持った分散系システムが発展したことに類似している。彼らが問題にするのは,記憶容量ではなく,通信速度なのだ。
森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.37-38
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