エッセィというのは,小説に比べれば抽象的である。物語というものが非常に具体的だからだ。他者にとって価値があるだろうことをエッセィでずばり書くのは,もの凄く難しいけれど,プロのもの書きであれば,それを生み出すことが仕事であるから,考えに考え,言葉を選んで書き記すよう努力している。責任は伴うし,誤解される危険もあるから,大いに気を遣い,知恵を駆使して,エッセィの中に大事な一文を置く。これに対して,小説は具体的なので,ずばり価値のある一文でも,べつにどうだって書ける。言ったのは仮想のキャラクタであるから,責任は作者にはない。一般的に通用するかどうかも関係がない。非常に気楽になんでもすらすら書ける。
ところが,読み手にしてみれば,そうではない。小説の登場人物が口にした言葉には「重み」があると感じるようだ。それは,そのシーン,その人生,その物語という具体的な環境の上に成り立っている「重み」なのだろう。しかし,逆にいえば,それはそれだけの「お膳立て」されたシステムの中にある「お手軽セット」なのだ。小説は感動させるシステムを売り物にしているわけだから,それほど考えなくても,その言葉が読み手の心にすっと入ってくるだろう。そうやって,「楽しさ」が味わえるようにできている。
森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.69-70
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