この誤りについて説明するもう1つの方法として,立証責任という観点からのものがあり,この手の説明の仕方は,バートランド・ラッセルによる天空のティーポットのたとえ話で,申し分なく例証されている。
正統派の人々の多くは,教条主義者が一般に認められているドグマを証明するよりも,懐疑論者がそれを反証するのが務めであるかのごとく語る。もちろん,これはまちがいである。もし私が,地球と火星のあいだに楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在するという説を唱え,用心深く,そのティーポットはあまりにも小さいのでもっと強力な望遠鏡をもってしても見ることができないと付け加えておきさえすれば,私の主張に誰も反証を加えることはできないだろう。しかしもし私がさらにつづけて,自分の主張は反証できないのだから,人間の理性がそれを疑うのは許されざる偏見であると言うならば,当然のことながら私はナンセンスなことを言っていると考えられてしかるべきである。しかし,もし,そのようなティーポットの存在が大昔の本に断言されており,日曜日ごとに神聖な真理として教えられ,学校で子供の心に吹きこまれていれば,その存在を信じることをためらうのは,異端の印となり,疑いをもつ人間は,文明の時代には精神分析医の,昔なら宗教裁判官の注意を引くはめにおちいっただろう。
こんなことを言って時間を無駄にすることはないだろう。なぜなら,これまで私が知るかぎり,誰もティーポットを崇拝したりしていないからだ。しかし,もし問い詰められれば,私たちは,軌道を回るティーポットなど絶対に存在しないという強い信念を公言することをためらわないだろう。けれども厳密に言えば,私たちはみなティーポット不可知論者でなければならない。天空のティーポットが存在しないことを,確実に証明することはできないのだ。なのに,実際問題として,私たちはティーポット不可知論を捨て無ティーポット論をとるのである。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.81-82.
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