私は子どものころ一度,幽霊の声を聞いたことがある。男の声で,まるで朗読かお祈りでもしているようにぶつぶつと呟いていた。完全にではないが,言葉をほとんど聞き分けることもできた。それは真剣で厳粛な声色であった。古い家には司祭の隠れ穴があるという話を聞かされたことがあったので,少しばかり怖かった。しかし私はベッドから出て,音の源に向かって這ってにじり寄っていった。近づいていくにつれて声はしだいに大きくなっていき,そのあと突然,私の頭の中で「反転」が起きた。いまや十分音の近くまで来ていたので,その正体をはっきり聞き分けることができた。鍵穴を吹き抜ける風の立てる音を素材にして,私の脳内シミュレーション・ソフトウェアが,厳粛に詠唱する男の言葉というモデルを構築してしまったのだ。もし私がもっと感じやすい子供であったなら,単なる理解不能なつぶやきではなく,はっきりとした単語や文章さえも「聞いて」しまっていたかもしれない。そして私が感じやすいだけでなく,宗教的な育てられ方もしていれば,風が何を語っているのかと不思議に思ったことだろう。
ほとんど同じ年齢のころ,別の機会に私は,海辺のある村のごくふつうの家の窓を通して,ちょっと形容しがたいほどの悪意をあらわにして,外を凝視している巨大な丸い顔を見た。私は不安に怯えながら近づいていき,ついにそれが本当は何であったかが分かった。それはtだ,垂れ下がったカーテンがたまたまぼんやりと,人の顔に似たパターンをつくりだしていただけだった。その顔と,そしてその邪悪な表情は,恐れおののく子供の脳が構築したものだった。2001年の9月11日,敬虔な人々は,ツイン・タワーから立ち上る煙の中にサタンの顔が見えると思った。この迷信は,インターネット上に公表され,広く流布した1枚の写真によって引き起こされたものだった。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.137-138.
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