宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は,進化心理学という,目下発展中の重要な分野から自然に産まれてくる。進化心理学者たちは,目がものを見るために,そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように,脳は,一連の専門的なデータ処理の必要性に対処するための器官(「モジュール」と言ってもいい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール,互恵的なやりとりを扱うモジュール,共感を扱うモジュール,等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつか,たとえば,他人の心についての理論形成のためのモジュール,同盟を形成するためのモジュール,集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振る舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。こうしたモジュールのいずれも,ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので,私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形で誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・ブルームは,子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは,そうした本能的な二元論の副産物である。私たち人類,ことに子供は,生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。
二元論者は,物質と精神のあいだに根本的な区別を認める。それに対して一元論者は,精神(心)は物質---脳の中の物質,あるいはひょっとしたらコンピューター---の1つの表れであり,物質と別個に存在することはありえないと考えている。二元論者は,精神とは物質をすみかとしながらその肉体とは切り離されたある種の霊(スピリット)で,したがって,たぶん肉体を離脱してどこか別の場所に存在することができると信じている。二元論者は精神の病を「悪魔に乗っ取られた」とためらうことなく解釈し,そうした悪魔は,肉体に一時的に滞在するだけの霊で,それゆえ「追い出す」ことができるかもしれないと考える。二元論者は,ほんのわずかな機会でもとらえて,生命をもたない物理的な対象を人格化し,滝や雲にさえ,精霊や悪魔を見る。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.204-205.
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