「真実」によって何を意味するかということを何らかの抽象的な方法で定義するという話になれば,ひょっとしたら,科学者は原理主義者かもしれない。しかし,ほかの誰もがそうである。私が進化は事実であると言うとき,ニュージーランドが南半球にあると言うとき以上に原理主義者ではない。私たちは,証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり,もし,それを反証するような新しい証拠が出されれば,一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりはしないものだ。
原理主義を情熱と混同するのはあまりにも安易である。私は原理主義的な創造論者から進化を擁護するときには十分情熱的に見えるかもしれないが,それは,私のなかに,それに対抗する原理主義があるからではない。それは,進化を支持する証拠が圧倒的に強力だからであって,私は進化に異論を唱える人々がそれを理解できない---あるいはこちらのほうがもっとよくあるのだが,聖書と矛盾するからといって証拠を吟味することを拒否される---のには,激しく落胆させられる。哀れな原理主義者たちと,彼らの影響を受けた人々がどれほど多くのことを見損なったままで死ぬということほど悲劇的なことはあるまい!もちろん,私が熱くなるのはそう思えばこそだ。なぜそうならずにいられよう?しかし,私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく,信仰でもない。なぜなら,もししかるべき証拠が出現したとすれば,自分は心を変える,しかも喜んでそうするだろうということを知っているからだ。
そういうことは実際に起こる。私は以前に,私が通っていたオックスフォード大学の動物学教室で,敬愛されていた長老のエピソードを披露したことがある。長年のあいだ彼は,ゴルジ器官(細胞内部にある顕微鏡で見える構造)というのは実在しない人為的なもので,幻想にほかならないと,熱烈に信じていた。毎月曜日の午後は教室全体で集まり,外部から招いた講師の研究発表を聞く習慣になっていた。ある月曜日,講師がアメリカの細胞生物学者だったとき,彼はゴルジ器官が実在のものであるという完璧に説得力のある証拠を提出した。講演のあと,かの長老はホールの前方に進み出てそのアメリカ人と握手し,興奮もあらわに,「いや先生,私は君に感謝したい。私はこの15年間ずっとまちがっていました」と言った。私たちは手が赤くなるまで拍手した。原理主義者は誰もそんなことは言わないだろう。実際には,すべての科学者がそんな態度を示すわけではないだろう。しかしすべての科学者は,それが理想であると口先では同意する---たとえば政治家であれば,そんなのは節操がないと言って批判するところだろうが。いま述べたこの出来事を思い出すと,いまでも熱いものが胸にこみ上げてくる。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.414-416.
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