当時の都市の自由有色人が今日の都市の黒人のイメージとどれほどかけ離れていたか,それを知るために,1800年のワシントンDCに住んでいた500人の自由黒人とその子孫について見てみよう。黒人は1807年に独自の学校を設立し,1862年に公立学校への入学が認められるまで黒人の子供はそこに通っていた。また1870年には初の黒人高校も設立された。それから20世紀半ばまで,この高校に通った生徒の4分の3が大学に進学していたが,この割合は今日の白人の平均よりも高い。
1900年代前半,ワシントンDC全体を対象とした学力テストでは,この高校の生徒のスコアはどの白人高校の生徒よりも高かった。IQテストが実施されるようになると,この高校の生徒は全国平均より高いスコアを出した。卒業生のなかには,初の黒人将校,初の黒人閣僚,南北戦争後の連邦再建以来初の黒人上院議員,そして血漿の発見者まで含まれている。
北部では,自由有色人が完全に平等な市民になれない運命にあるといったようなことはなかった。当初はアイルランド系より有利な立場にあった。北部の黒人が地位を下げたのは,南部で多くの黒人が奴隷にされ,19世紀後半から,読み書きのできない貧しい黒人が北部の都市に数多く移住してきたためだった。
奴隷制度によって南部の黒人が置かれた状況は,アイルランド人の母国での状況と似ていた。いずれの集団でも,働いたところで報われないというゆゆしき事実があって,そもそも熱心に働くことに文化的価値がなかった。奴隷が働いても所有者の得にしかならず,アイルランド人が働いてもイギリス人の不在地主の得にしかならなかった。アイルランド人の住む小屋——掘っ立て小屋と言ったほうがぴったりするだろう——でさえ地主の持ち物で,家を直しても所有者の利益になるだけだからと,修繕する気にもほとんどならなかった。
アイルランド人の生態環境もまた,アイルランド人が伝統的に仕事を嫌うもう1つの直接的理由となった。アイルランドの土壌を最も生産的に利用する方法はジャガイモの栽培だったが,それには1年に数週間働くだけでよかった。19世紀中頃に初めてアメリカ大陸へやってきた大勢のアイルランド人には,定職に就くという習慣がなかった。無精者という評判が拭われるまでには,1世紀以上かかった。
リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 133-134
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)
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