「コウモリであるとはどのようなことか?」という,哲学者トマス・ネーゲルの有名な論文がある。その論文はコウモリについて書かれているのではなく,われわれではない何かであるというのは「どのような」ことなのか,に想像をめぐらすという哲学的な問題について書かれている。なぜコウモリが哲学者に格好の話題なのかといえば,エコロケーションするコウモリの経験がどうみても異質のものであり,われわれ自身の経験とはたいへん異なっていると考えられているからである。とはいえ,コウモリの経験を共有したいとしても,洞窟へ行き,大声で叫ぶとか二本のスプーンを打ち合わせるとかして,そのエコーを聴くまでにどれくらいの時間が遅れるかを意識的に測ったうえで,洞窟の壁がどれくらい離れているかを計算してみるなどというのは,もうほとんど確実にはなはだしい誤解を招くもとなのだ。
それがコウモリであるとはどのようなことかと関係ないのは,これから述べることが色をみるというのはどういうことなのかと関係ないのと同じである。すなわち,ある装置を使ってあなたの眼に入ってくる光の波長を測ってみて,波長が長ければあなたは赤を見ているのだし,短ければ紫とか青を見ている。われわれが赤と呼んでいる光が,青と呼んでいる光より長い波長をもっているのは,ただ物理的な事実にすぎない。波長が異なれば,われわれの網膜にある赤色感受性をもつ視細胞にスイッチが入ったり青色感受性をもつ視細胞にスイッチが入ったりする。しかし,色というものをわれわれが主観的に感じるさいに,波長の概念などはまるで関係ない。青とか赤を見るのが「どのようなことか」について考えても,どちらの光がより長い波長をもっているかはまったくわからない。(ふつうはそんなことはないが)もし波長が問題であるとするなら,われわれはそれを覚えておくとか,あるいは(いつも私がしていることだが)本で調べるかしなくてはならない。同じように,コウモリは,われわれがエコーと呼んでいるものを使って昆虫の位置を認識している。しかし,われわれが青とか赤を認識するときに波長で考えたりしてないのと同じく,コウモリは昆虫を認識するときにきっとエコーの遅れによって考えたりしてはいないはずである。
リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.67-68.
PR