ヘインやほかの研究が示しているのは,話せるようになる以前の出来事で覚えていると思っているものが,視覚的であり,漠然とした印象のようなもので,原始的であるといった場合に,その記憶は本物である可能性が高く,他者から間接的に聞いた情報でない可能性が高いということである。言語的に洗練された物語のような記憶であるほど,他者から聞いた話や家族アルバムの写真,さらにはそうあってほしいという願望によって再構成されたものである可能性が高くなる(ここでごく簡単に注意しておきたいのは,とてもシンプルな視覚的記憶であっても,それを説明するには言葉が必要であり,そのため,言葉を獲得する以前の出来事を説明するためには,それ以降に獲得した言語的スキルが多少なりとも必要になるということだ)。
さて,こんなにも幼い頃の記憶があるのだと自慢のタネだった初期の記憶が,このように否定されることに対して,反発を覚える人もいるだろう。たとえば,私の頭のなかでは,格子窓の真下にゴリウォグ人形が見えるけれど(白状すると,これが私のもっとも古い記憶だ),これは私がまだ「格子」という言葉を覚える以前の出来事だっただろう。
とはいえ,ヘインたちは別の論文でこう述べている。
人生のごく初期に経験した出来事は,「アップデート」されない限り,発達段階を越えて次の発達段階の言葉に翻訳されることはない。もしその記憶が保持されているのなら,それは前の発達段階で符号化されたそのままの形で保持されているだろう。
かなり初期の記憶で言語的に表現できるもののなかには,おそらく本物の記憶も混じっているだろうが,何らかの形でアップデートされているのだろう。アップデートというのは,子どもが体験したことを親に語り,その後,発達が進むなかで親が子どもと会話しながらその記憶を引き出すといったようなやりとりを指している。そうした会話で使われる語彙は,出来事を体験した当初よりも洗練されたもので,大人になってから思い出すのはこの会話の記憶なのだ。
私の「ゴリウォグ人形」の記憶についていえば,それは私が第二次世界大戦中に避難していて,母親と一緒にいなかったときに体験した(と私は信じている)ものなので,私が現在覚えているバージョンの記憶は,おそらく,私が母親に語ったものを,もっと後の発達段階において,母親が私に語り直したものだと思われる。
カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.52-53
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)
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