これほど多くのことを忘れているのには,いくつか理由がある。子どもの頃は,環境に適応するために,毎日の生活の決まりきった流れを理解しスクリプトを構成することが重要で,スクリプトに一致しない完全に新奇な出来事は,忘れ去られてしまう。また,ほどほどに新奇な出来事であれば,もう一度同じような出来事が起きた場合にはスクリプトに組み込めるよう,しばらくの間は保持されるかもしれないが,統合されなければ忘れられてしまう。そして,スクリプト自身は,一般的な知識の一部に組み込まれてしまい,それ自体固有の経験として想起することができなくなってしまう。
成長して言語能力が増し,社会的な役割を担うことが必要となってきたときにはじめて,記憶は今までとは違う価値を持つようになる。「あなたのことを話してくれる?私は私のことを話すから」といったように,記憶を交換することが,社会的通貨としての役割を担うようになるのだ。そして,このような社会的通貨としての記憶の利用もまた,家庭内の会話から始まる。母や父,兄や姉に話すために私たちが思い出すのは,家族が興味を抱いていると思われる内容である。では,私たちはどのようにして,彼らが何に興味を持っているか知るのだろうか?実は,一緒に過去の経験について会話し,記憶をまとめあげる会話を通して彼ら自身がそれを教えてくれるのだ。
カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.83-84
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)
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