要するに,ハリウッドは,サイボーグとロボットを著しく混同しているのだ。1984年に,『ターミネーター』のシリーズ第1作が公開されたとき,サイボーグとはロボットであり,それゆえモンスターであるという印象が人々の心に強烈に焼きつけられた。ターミネーターに命を狙われているサラ・コナーに,彼女を守るために送り込まれたカイル・リースは,こう説明する。「理を説いてわかるような相手じゃないし,交渉するのも無理だ。やつが誰かに情けをかけるとか,自分の行動を後悔するとか,何かに不安を感じることなんてありえない。それと,絶対に途中であきらめないんだ。絶対に。君を殺すまで」
それにしても,ターミネーターとはいったい何者なのだろうか。リースは説明しながら,ロボットという単語とサイボーグという単語を慎重に区別している。
サラ 「機械なの?つまり,ロボットみたいな」
リース「ロボットじゃない。サイボーグだ。サイバネティック・オーガニズム」
サラ 「でも……血を流していたわ」
リース「わかった。説明しよう。ターミネーターには血液が流れている。一部が人間,一部が機械なんだ。内部は,完全武装を施された超合金製の胴体で,マイクロプロセッサーによって制御されている。とても頑丈だ。ところが,外側は,人間の生体組織でできている。肉,皮膚,髪……血。つまり,サイボーグ用に培養された生体組織をかぶせてあるということだ」
あらゆる世代の映画ファンにとって,ターミネーターの攻撃に遭い,弾雨のなかでリースがサラに語った言葉がサイボーグの権威ある定義となった。しかし,彼がターミネーターをサイボーグと呼んだのは完全な誤りだ。たしかに,ターミネーターの皮膚は人間の生体組織だけれども,それは彼が機械であることを隠すための偽装にすぎない。金属製の骨格をむき出しにするために皮膚が燃やされる場面を見ればわかるように,ターミネーターは,皮膚がなくてもまったく問題なく機能できるロボットである。ターミネーターは,人間の皮膚はあっても,人間性はない。
1960年にサイボーグという言葉をつくったマンフレッド・クラインズが,この映画を観たときにあきれ返った理由もそこにある。彼は,サイボーグを「自動制御型マンマシンシステム」と定義したが,ターミネーターは人間ではない。インタビューの中で,クラインズは次のように抗議している。
最近公開された,アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ターミネーター』という映画は,サイボーグという概念から人間性を奪ってしまった。この作品は,我々が提唱した真の科学的概念を曲解している。それは風刺にすらなっていない。モンスターではないものからモンスターを創造しているのだから,もっと悪い。身体機能を拡大強化された人間をモンスター化するというのは……。
クラインズが憤慨するのは当然だ。ぼくだって腹が立つ。ロボットとサイボーグの違いは明らかなのに,よくものがわかっているはずの学者も含めて,多くの人たちがこれら2つを置き換え可能な同義語として用いている。
マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.149-151
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