やや単純化すると,次のように状況を説明できるかもしれない。1つの証拠というものは,いくとおりかに解釈しうることがある。そのとき,そのあいまいな証拠から考察を膨らませて何らかの結論を導くということが,しばらく前までよく行われていた。例えば20世紀初頭に活躍したフランスのマルセラン・ブールが,ネアンデルタール人のことを「野蛮」で「獣のような」と形容したのは,彼が研究したネアンデルタール人の骨格形態が,,彼が美しく高尚と信じるホモ・サピエンスとずいぶn違っていたことに起因したようだ。骨格形態だけから野蛮であると,はたしてどこまで言えるのだろうか。現代の研究者たちは,たとえネアンデルタール人の脳の形——頭骨の内面の形状からおおよそわかる——が我々と違っていても,それが知能の違いを意味するかどうかはわからないという慎重な立場をとる。少々欲求不満を誘うような話ではあるが,私たちが事実を知ることにこだわりたいとするのなら,これがあるべき姿勢である。そして「科学」とは,そのような厳密に事実を追究する姿勢のことを指すのだと理解してよい。
海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.36-37
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