祖先たちは世界地理を知らなかったことも,指摘しておきたい。現在の私たちは,地球上の陸地の位置や形を知っていることを,当たり前と思っている。しかし,そもそも世界地図のようなものが作られはじめてから,まだ数百年しかたっていないのだ。私たちだって,もし地図を見たことがなければ,自分が地球上のどの位置にいるのかを意識することはできない。同じように祖先たちがアフリカの外へ広がり,はじめてユーラシアの土を踏んだとき,彼らがそれを歴史的な出来事と思ったはずがない。1万2000年ほど前に南アメリカ大陸の南端へたどりついた集団が,自分たちがアフリカにはじまるホモ・サピエンスの壮大な拡散史の終着点の1つ今達したのだとわかっていたら,彼らはたいへんな興奮を味わうことができたろうが,残念ながら彼らはそれを知らなかった。祖先たちは,行く先に何があるのかはあまり知らずに,何しろ行けるところまで行ったのだ。そしてある時点で,幾世代も前の彼らの祖先たちがもっていた,古い土地の記憶を失っていったことだろう。地球上のすべての陸地がホモ・サピエンスで埋め尽くされていく歴史は壮大なものだが,以上のような意味において,これは現代のいわゆる冒険物語とは少し違うのである。
海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.101
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