人間の心はアナロジー思考にひたりきっている。われわれは,ひじょうにかけはなれた過程になんとかしてわずかな類似点を探し出し,それに意味を見つけようとせずにはいられない。私はパナマで日がな一日,おびただしい数のハキリアリの2つのコロニーが戦うのを見ながら過ごしたことがあるが,心のなかで,この足の散らばる戦場とかつて見たパッシェンデールの写真とをつい比較してしまった。私はほとんど銃声を聞き硝煙を嗅いでいた。私の最初の本『利己的な遺伝子』が出版されてまもなく,2人の聖職者が別々に私に近づいてきた。彼らは2人とも,その本のなかの考え方と原罪という教義とのあいだに成立する同じアナロジーを思いついたのだ。ダーウィンは進化という考え方を,数えきれないほどの世代が経つうちに体の形が変化する生物体に対してのみ,限定的に適用した。彼の後継者は,あらゆるものに進化を見ようとする誘惑にかられてしまい,たとえば,宇宙の形状の変化に,人間文明の発展「段階」に,そしてスカートの丈の長さの流行にも進化を見た。ときにはそうしたアナロジーが途方もなく実り豊かなこともあろうが,アナロジーは往々にして度を越してしまいがちだし,またあまりに根拠薄弱で役に立たない,いやまったく有害でさえあるアナロジーにいたずらに興奮することも,じつは容易なのだ。私はしだいに私宛にくる偏執的な手紙を受け取るのに慣れっこになり,折り紙付きの無益な偏執狂の特徴の1つが,度はずれた熱狂的アナロジー化であることを学んでいった。
しかし別の見方をすれば,科学におけるもっとも偉大な進歩のいくつかがもたらされたのは,頭のいい誰かが,すでに理解されている問題といまだに謎の解かれていない別の問題とのあいだにアナロジーが成立することを見抜いたおかげでもある。要は一方で極度に無差別なアナロジー化をすることと,他方で実りあるアナロジーに対して不毛にも目をつむることとの,中道を行くべきなのだ。
リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.313-314.
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