ここで種差別主義者が潜ませている前提は非常に単純である。人間は人間で,ゴリラは動物。両者のあいだには疑う余地のない深い断絶があり,したがって,一人の人間の子供の命は,世界中のすべてのゴリラの命よりも価値があるというのは。一頭の動物の「値打ち」は,その飼い主にとっての,あるいは,稀少な種の場合にはにんげんにとっての,代わりの動物を買うのに必要な値段でしかない。しかし,知覚のない胎児の組織のちっぽけな一片でさえ,ホモ・サピエンスというラベルを貼り付ければ,その命は突然,無限の,はかりしれない価値へと跳ね上がるのだ。
この思考法は,私が“不連続精神(マインド)”と呼びたいと思っているものを特徴づけている。私たちは誰も,身長180センチメートルの女性は背が高く,150センチメートルの女性は高くないことに同意する。「高い」とか「低い」のような言葉は,私たちを,世界を定量的な階層構造に押し込みたいという誘惑に駆り立てるが,このことは世界が本当に不連続な分布をしていることを意味するものではない。あなたが,ある女性の身長は165センチメートルだと言い,この女性は背が高いのかそうでないかを決めてくれと私に頼んだとしよう。私は肩をすくめて,「彼女は165センチメートルで,これであなたの知りたいことが伝わっているわけじゃないのですか?」という。しかし,少しばかり戯画化して言えば,不連続精神の持ち主は,その女性が背が高いか低いかを判定するために(高い費用をかけて)裁判所に行くだろう。実際には,戯画だという必要さえほとんどない。何年ものあいだ,南アフリカ政府の裁判所は,さまざまな比率で混血している特定の個人を,白人,黒人,「有色(カラード)」と呼ぶべきかどうかを裁定する活発な駆け引きをおこなってきたのである。
リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 pp.44-45.
PR