大半の種にとっては,たいていの場合,物事の詳細まで覚えずとも,あらましを覚えていれば用は足りる。ビーバーなら,ダムのつくり方を知っていなければならないが,個々の枝がどこにあるかまで覚える必要はない。進化し続ける大半の種にとって,文脈に依存する方式の記憶の仕組みを持つことの利益とその代償は,うまく釣り合いが取れていた。大筋を速く覚える一方で,細部はゆっくりと覚える。これで問題が生じないのなら,それで良かったのだ。
しかし,ヒトの場合は,それではすまされない。社会や状況の変化によって,時に私たちには父祖には要求されなかったような精度が求められる。法廷では,誰かが罪を犯したと判明するだけでは不十分だ。どの人がその罪を犯したのかを明らかにせねばならない。ところが,それは平均的な人の記憶力を越えている。しかし,DNA鑑定が出現する最近まで,証人による証言は絶対的な証拠とされていた。いかにも正直そうな証人が自信たっぷりに証言すると,陪審は証人が真実を述べていると判断する。
ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.44-45
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