もちろん,何かを十分に吟味するということは,それに賛成と反対の両方の立場から論理的に検討することを意味する。しかし,意識して他の選択肢——自然と頭に浮かぶものではない——を検討するのでもない限り,私たちは正しいとされる説と矛盾する証拠よりは,一致する証拠を思い出すものである。自分の信念と矛盾しない情報のほうが鮮明に思い出されるため,たとえその信念が誤っていたとしても捨て去ることは非常に難しくなる。
むろん,同じことが科学者にも当てはまる。科学の目的はバランスよく証拠に取り組むことであるが,科学者とて人の子である。どうしても自分の説を裏づける証拠に目が行く。過去の科学文献を何でもいいから読んでみると,天才ばかりがいたわけではなく,現代の視点から見ると奇人としか思えぬような人物も多い。地球が平らであると信じていた人しかり,錬金術師しかりである。歴史はそのような虚構を信じた科学者には優しくない。しかし真の現実主義者なら,文脈依存記憶にこれほど支配された種であれば,こうしたことは大いにあり得ると考えるであろう。
ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.81
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