ヒトの脳も脆弱であることは疑う余地がない。脳はこれまで述べてきたような認知エラーを始終起こすし,小さな不具合やときには重大な故障も起こす。もっとも経度の不具合はチェスの達人がへまと呼ぶ類のものであり,私のノルウェー人の友人はこれを「脳の放屁」と揶揄する。理性や注意が一時的に機能を停止するわけだが,これは時に,「しまった!」と叫ぶような後悔や交通事故にすらつながることがある。そんな馬鹿はしないはずなのに,ほんの一瞬気が緩む。私たちは一生懸命でも,脳は私たちの望むとおりには働いてくれない。誰一人これから逃れる術はない。タイガー・ウッズですら,やさしいパットを沈められないこともある。
当然と言えば当然だが,適切にプログラムされたコンピュータなら,こうしたへまはやらない。私のコンピュータは複雑な演算の途中で一桁繰り上げるのを忘れたり,(私にとっては残念なことに)チェスの途中で「ぼんやりして」クイーンを守るのを忘れたりはしない。よく言われるのとは違って,エスキモーは実際は雪に関する単語を500以上も持ってはいないが,英語を母語とする私たちは,短絡的な認知に関する単語を実にたくさん持っている。「mistake(ミス)」「blunder(へま)」「fingerfehler(手違い)」(チェスプレーヤーのあいだでよく使われる英語とドイツ語の混種語)はもとより,「goof(しくじり)」「gaffe(失態)」「flub(失策)」「boo-boo(どじ)」「slip(掛け違い)」「howler(間違い)」「oversight(過失)」とじつに多彩だ。言うまでもなく,私たちはこれらの語を使う機会には事欠かない。
ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.210-211
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